コミュ障認定
コミュ障には2種類ある。
1、誰ともコミュニケーションがとれない。相手が誰であれ考えている事が読めない。合わせられない。
2、特定の人、グループと話ができない。
常識的な会話とはなんだろう?
誰とでも話が出来る人はいる。しかしそれは”常識的会話というルール”を熟知している人が卓越しているスキルでしかない。
この場合の常識とは、母数の大きさである。
人は当然、日常的に自分が一番話し易い話し方、内容を話す。
社会において、より人口比率の大きい共有言語、文法、話法を知っている人程それを
自然に使う為、そこから離れている人、その共有言語を知らない人は、コミュニケーションがが上手くとれず混乱する。
これがコミュ障、が発生する最大の理由の一つだと思う。
また、現代はネットの影響か趣味、個性の細分化、コミュニティ化が進んでいると感じる。社会の共有言語を使わずとも、自分と似た文法をもっている他人と関わり易くなっているのだ。
結果、個人は各々のコミュニティにおける共有言語を蓄積し、それが各々の常識的会話になっていく。
よって、コミュ障と言われる人間は最も人口の多い”常識的会話というルール”のルールブックを読まず、知らないままそのゲームに上がったとき、身動きがとれなくなっているだけなのだ。
これは、初めての会話で起き易い気がする。例えばTwitter。
本人は冗談でリプライを飛ばしても、冗談と受け取ってもらえないケースはよく見かける。(余談だが、目上に冗談を飛ばすのは失礼だと昔よく怒られた。あれは、目上の常識に合わせるのが当然という事だったと今気付いた。)
これを端で見ていると、感想は二つだ
こんな冗談もわからんのかいw か それは冗談にならないだろ... だ。
どちらが正解という話ではなく、最初からどちらも正解なのだ。
コミュ充と呼ばれる人達は、どこででもコミュニケーションがとれるような人種に思われる。なぜか。
それは、彼らが自分の得意とするコミュニケーション方法に相手を乗せるのが上手い為で、コミュニケーションにおける万能スキル保持者だから、ではないと思う。(当然そういう人もいるだろうが)
ややこしく色々と書いてみたが、しかし笑顔や挨拶、身振り、言葉の音程や強弱の使い方など、普遍的に人が心地よいと思う対話方法もやはりあるのだと思う。
そういった、流行り廃りのある”常識的会話スキル”ではない、より普遍性の高いコミュニケーションスキルを少しずつ身につけていけたらと思う。
まずは腹式呼吸の練習から初めてみようか。
雑録の雑録
不特定多数に読んでもらう事を想定して、文章を書く事を止めた。自分が読めればいい。
誰かを想定して文章を書くという事は、情報の内容を少なからず変えるという事だ。
僕が僕の思うままに文章を書くと、後々それを読んだ時、自分に返ってくるフィードバックの量も多くなる。内容、もちろん感情も。
また、ファンタジーを必要以上に込める理由もなくなる。
ただ思った事を思ったままに吐き出す事はとても心地が良い、というのも勿論ある。
誰かに物を伝える、伝わるというのは気持ちいい勘違いだ。
世界の共有が出来たと思えれば寂しさは紛れるし、それを継続したいと思う気持ちは恋にも似てる。
真理だけを求めるほど確固たる意思があるわけではないが、やはりクリアな視界を持っていたいという欲もある。
特に結論はない。いつか寂しさに押され共感を求める日もくるのだろうか。
未来に希望を担保するこの癖は矯正したいものだ。
破壊と創造
学生時代も独学中もテレビでもドラマでもラジオでも漫才でも散々聞いた言葉だ。安っぽく、軽薄で、誠意が無く、とても嫌いだ。
僕は今日、Twitterのアカウントを破壊して、ブログ記事を制作した。理由は(おそらく)堪え難くなった仕事のストレスだ。
この行為の後僕はどうなったか。とてもとてもスッキリしたのだ。ストレスに苛まれた末の衝動しての破壊と創造は、形がこんなに現代的チープさであっても僕の心を幾分軽くしてくれた。
これは、指を必要以上に動かし血の巡りがよくなったから脳に酸素が行き渡り結果ストレスが軽減された。という事ではないだろう。シナプスがスパークした電撃でストレス回路が強制的に焼き切られたという方が正しいくらいの気分だ。
美術、デザイン、あらゆる創作を生業にする人達なら一度は考える。なぜ自分は作るのだろうと。ある人は誰かを救うからと言い、ある人は理由なんかないと言う。実感の重みのある言葉を吐く人もいれば、明後日の方向を見つめたまま語る人もいる。
しかし今日僕は強烈に実感した。救われているのは僕なのだと。
僕は僕のストレスを解放する為に制作をしているのだ。
人の営みを快適にする。その為にデザインというテクノロジーを使う行為が自分の心を満たすのだと、そう語った事は幾度となくあるが、しかしあくまで推測であり、今まではその感情を捉まえてはいなかったのだ。(今回、僕が僕の為にただ制作をする というこの姿勢がそれを今までになく判り易くしたのかもしれない。)
僕は、自分で起こした発見は全てイリュージョンだと思っている。一時の幻想であり、また新たな幻想でこの感情が発見が包み込まれる日はまたきっといつか来るのだろうと思う。
しかし、それはそれで楽しみにしていようと思う。
僕は僕の発見を破壊し、新しい発見を創造する事で日々を暮らしていけるのだから。
自分がメンヘラである可能性について。
Twitterのアカウントを破棄した。深夜に。
自分では、なんてメンヘラな行為だろうと思うのだが、一体なにがそう思わせるんだろう。(そもそもこの思考回路そのものがそうなのか...)
まず、アカウントを消した理由は二つ。
1、仕事のストレスが溜まりに溜まって破壊衝動になったから。しかしPCもギターも叩き割れないから。
2、Twitterが面倒になりつつあったから。オフラインの付き合いが無いSNS面倒くさい。(後付けのような気もする)
1は精神的な自傷行為だ。
何かを壊す事で罪悪感を得る。その罪の意識で自分を罰する。
罰する事で精神が落ち着く。つまりよりどころを見つけるからだろう。(まるで古い宗教儀式のようだ)
2は、Twitterへの依存度が高まっている事への危機感、そこからくる防衛本能のようなものだろう。その思考そのものが、信条への依存と言えなくもないが。
客観的に他人に分析を依頼すればまだ幾つかの条件は出てくるだろうが、僕から見ればこんなものである。
以上の条件はメンヘラを満たすか? 以下ニコニコ大百科より抜粋
メンヘラとは (メンヘラとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
メンヘラとは、2ちゃんねるのメンタルヘルス板にいるような人間のこと。ネットスラング。
概要
語源は2ちゃんねるの「メンタルヘルス板」より由来する。メンタルヘルス板とは「心の健康」について取り扱う板。
2ちゃんねらーの間で「メンタルヘルス板にいるような人間」をメンヘラーと略されるようになり、それがメンヘラになった。主に心に病気を抱えた人について使われる言葉として扱われている。
差別的な意味を含む場合もあるため扱いには注意しよう。
- 誰かに愛情を向けてもらいたい、そんな自分が何より愛おしい
- 誰かに気を向いてもらうためになんでもする「かまってちゃん」行為がベースにある
- 自分という存在がそっぽを向かれるのを何より恐れるが、自分以外の他人がどうなっても知ったことなし
- 一言で言えば、「愛してくれないならここで死んでやる!」
- 特定の誰かを愛している、他は(時に自分自身さえ)どうでもいい
- 愛している特定の人のためになんでもする「護って、尽くす」行為がベースにある
- 愛している人にそっぽを向かれるのを何より恐れるが、それ以外の他人からどう思われようが知ったことなし
- 一言で言えば、「愛してくれないなら邪魔なあいつ殺す!」
だそうだ。
ニコニコ大百科におけるメンヘラ/ヤンデレ比較から考えれば僕は
条件1ー満たさない。SNSが面倒になっている。ブログの方が個人的で良い。レスポンスはあってもいいが、キャッチボールは要らない。
条件2ー満たさない。同上
条件3ー前半は満たさないが、後半は満たす。何の告知もせず退会したので、他人がどう思うかは考慮されていない。
条件4ー満たさない。「死んでやる!」の方が近い。
よって条件4つのうち、1ポイントという所だろう。メンヘラ度25%といった所だろうか。
しかし母数を仮に 日本人 とすると、このメンヘラ度25%という数字はいかがなものだろうか。平均値が5%程度であれば大したメンヘラに思えるが、直感に頼ればおそらく20%程度なのではないだろうか。
特に、条件1を満たすケースは多いように思われる。
しかし、類は友を呼ぶと言うし、私の周りには25%のメンヘラを抱えた人間が多いのかもしれない。
さもすれば僕は僕を平均だと思うのだろうが、いや、自分の世界スケールで一般を語るというのは、しようとすればするほど滑稽に思えてならない。
この場合の”一般”はなんだろうか。真理のようなものか。
いやはや堂々巡りである。
文学と演劇
ハムレットにおける、生きるべきか死ぬべきかの独白〜尼寺へ行け!
までのパートは、陰で国王とポローニャスが聞いている。
それをハムレットは知っていたか?あるいは知らなかったか、途中で気付いたか、
という問題がある。
これが問題として完璧に成立するのは文章上であって、舞台ではその限りではない。
ハムレットのちょっとした目配せ、台詞、あるいは 間の取り方 で表現する事ができる。
文章より舞台の方が情報量が多いのは明確である。
情報量が多いという事は、考える余地は減るということ。余白が少なくなるという事。
間の持つ力は面白い。
読書のスピードを筆者は制限できない。しかし舞台上であれば可能だ。
2時間であればその2時間、観客を拘束し、感受性のタイムラインを体感させる事ができる。より具体的に。
間を使った表現、間が恐怖を演出し、涙を誘い、笑いを起こす事も出来る。
間、そのものには何もない。静寂であり、停止にほぼ同じ。
何も無い事によって、その長さによって何かを表現する事が出来る。
空白で観客の想像力をブーストさせる。
情報量は増え、考える余地は減らされた舞台上での突然の空白、
一瞬で観客の思考は強制的に解放され、突然(のアクシデント)故にその打開策を”条件反射で”見つけようとする
そういった、思考の可塑性を利用し強制着火させる仕組みが、間、の表現なのではないだろうか。
ロスコ 美術品のレシピ(メモ
1、まず何より、死に対する関心がなくてはならない
生命には限りがあると身近に感じる事
悲劇的芸術、ロマン主義芸術などは死に通じている
There must be a clear preoccupation with death
- intimations of mortality... Tragic art, romantic art, etc...
deals with the knowledge of death.
2、官能性
私達が世界に実在する根拠
存在物への関わり方は貪欲である。
Sensuality. Our basis of being concrete about the world.
It is a lustful relationship to things that exist.
3、緊張
葛藤あるいは抑圧された欲望
Tension, Either conflict or curbed desire.
4、アイロニー
これは現代固有の材料である
自己を表に出さずに検証することで、人は束の間、別のものに向かう事が出来る
Irony. This is a modern ingredient.
-the self effacement and ecamination by which a man for an
instant can go on to somthing else.
5、機知と遊び心ー人間的要素として
Wit and play... for the human element.
6、はかなさと偶然性ー人間的要素として
The ephemeral and chance... for the human elemnt.
7、10%の希望
悲劇的な概念により耐え易くするため
Hope. 10% to make the tragic concept more edurable.
私が絵を描く時は、これらの材料を慎重に計ります。
かたちは常にこれらの要素から生まれ、絵はこれらの要素を配分して出来上がるのです。
正義の話(中途メモ
サンデル博士の東大講義をItunes Uで見ていて面白い事があった。
功利主義者の青年は「3人の命を助ける為なら1人を殺してもかまわない」と言い切り
会場は(傍目には)否定のムードだった。
しかし、別の質問に「ビルゲイツが払う1億円の税金はビルにとって大した問題ではないが、その分配を受ける貧乏人にとっては大きな違いだ。だからより幸福度の総数が多い為正義である。」と。
赤を基調とする絵画はなぜか売れる、と村上隆は言った。
しかし、最も売れるカーテンの色を考えてみると、おそらく赤ではないと思う。
つまり適所適材なのだ。主義思想でさえ、ある特徴を持ってさえいれば、受け入れられる場所はあると。
こんな当たり前の事だが場所が変わるとその発見に驚く。事に驚いた。
今まで自分が避難し嫌悪してきたもの、あるいはこれから嫌悪するものについて、
もう少し冷静に判断をしようと思わせられる、小さな発見であった。