現代人とドラキュラ

今日のツイート、

ドラキュラ。十字架(宗教)を避け、銀(富)に関心が無く、にんにく(臭い)に過敏に反応する。まるで現代人だ。

腐女子の影響か、ポーの一族を読んだ。その時代時代にとって「最先端の業」というのは、女性の感知の鋭さが真っ先に具現化してきたのかもしれない。

これは女性の方が老いに敏感だからなのかしら。

西洋はオカルトを駆逐する歴史がある。

魔女狩りも異端裁判も侵略戦争もそうだ。まあ理由は各々違うが。

思想のレベルになると僕は無知であり堂々巡りを繰り返すのでイメージだけ捕まえる。

ドラキュラに感じた現代性、宮崎駿は「現代人というのは救いを求めない」と言った。

救いを求めない、というのは救いを求める人間からすると悪魔の教義だ。

弱いから縋っている物を奪われる恐怖。辛い、”強い人間の現実”を押し付けられる恐怖。

(自分もまた押し付けている事、を自覚しているかどうかは問題ではない)

その恐怖で現代性を駆逐する。

現代性はロボットの様に暮らす事でも、無垢な羊になる事でもない。

救いを自分の原理に求める事だ。

そう考えると、現代日本人の持つ”自分の感情至上主義”はまさに現代性の顕在だろうか?

それが自我であるかどうかはさておき、そういった”引きこもり至上主義”というのは

鎖国からの伝統であり、あるいは細分化の叫ばれる現代においては

そういった鎖国島国根性というのが、現代人の心のユートピアを支える

一つの重要な柱になっていくのかもしれない。

 

 

 

 

現実的な問題

僕にとって色面構成や造形を簡略化する方法を探す事は、とても現実的な問題だ。

これは、重病人が死を意識する事や、貧乏からくる金銭欲と何も変わらず

それが僕自身の興味であり、そこに快感を得ているからだと自覚している。

しかし幼馴染みとそういった話はしないだろう?と僕に問う人はいる。

本当にそうか?いや僕はそういった話をしているのだ。

勿論それだけが会話の全てを占めるわけではないが、しかし僕は人を選ばずそういった話をしているつもりである。

結婚した友人の話、今からどの店に行くか、別れ話から会社の愚痴まで全て、

抽象的なレベルでは全て僕の現実の一部であり、全てデザインに帰結する。

いや、帰結しているわけではないかもしれない。だが、繋がらない対話は何一つない。

えらくややこしくまとまりもない文章だが、そういう事なのだ。

僕は、僕の人生の一部としてデザインを置いているし、僕の言う”デザイン”が他人ときちんと共有出来ているのかは判断できない。

が、やはり誰かを喜ばせたり楽しませたり、手がけた物が誰かの人生に少しでもタッチできたらと、願わずにはいられない。

このブログは、その道のりの手助けになる可能性の一つになる事を祈る、形の一つである。